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昭和五十六年九月七日 朝の御理解
X御理解 第六十四節 此方は参ってたずねる所がなかった。氏子はおかげを受けて遠路のところを参って来るが、信心して徳を受けて身しのぎをするようになれ。
昨日は、あのように、築水地区の青年会の大会が合楽教会信徒会館で盛大に出来ましたが。講師に結城先生が見えておられて、噂に聞いておりましたけれども、なかなか素晴らしい信心を頂いて行っておられる方だと。
まあ今日の御理解で言うと、ああいう信心を身凌ぎの出ける信心というのではなかろうかと思いますね。自分でも言っておられますように、もうどんな事でも神様にお訪ねをしてと言うておられます。それもお結界でお訪ねするのでなくて神様に直接云うならばお訪ねをする。
それで神様はお知らせを頂くとか、声を聞くということぢゃないのだけれども、心に感ずる。その為に様々な修行の手立てというか、ご祈念の手立てといったような事を話しておられましたね。もうなんと言うでしょうか、二時間なさったでしょうね、もう時間を感じないように面白う、おかしゅう、人間の我情我欲を絡ませながら。そしてその我情が取れていく様子をあんな、素晴らしいですね。
もう普通の、あの噺家でもあんなゼスチャーは出来ないと思うような感じのお話も名人でした。だからおかげを受けられることの名人でもやっぱありますですね。
お話を頂いておりますと。そのお互いある我情我欲を絡ませながらの話が素晴らしかったですね。それが一つ一つ本当なことへ、小学校から中学校、中学校から高校、大学というふうに、信心の過程というものがだんだん進んで行かれる、ね。それを自分はこんな信心を出けますといったようなふうに言われずに、どんないつの場合でも人情が入り、我情が入り我欲が入るのだけれども、結局は本当なことをしていっておられる、ね。
まあ云うならは、おかげを頂くこつというあの御本を昨日の参加、あの見えた方達に全部一冊づつあのまあ、あの皆さん頂かれたでしょう。あれが五百冊用意してあったそうですけれども、百冊あまり足りなかった。だから六百からの、あのやはり参拝者があったという事になりますよね。
本当に青年会長である安武先生の一生懸命のあの信心、修行それに取り巻く先生方のぢゃない青年会の方達の熱心さがね。私は思いました昨日は、本当に熱心になりゃ神様も確かに熱心になる。氏子が一生懸命になりゃ神様もやっぱ一生懸命になって下さるなあということを思いましたよ。
昨日終わってしまってから、あの青年会長お礼に出て来ておりましたが。『鯛の活き作りでままになった様なおかげを皆が頂いて帰ったという意味のことを頂いた。』勿論徳を受けたとかどうちゅう事ではないけれども、まあ鯛といゃおかげと仰るが、それも生き生きとした、鯛の活き作りでままになるようなおかげを皆が頂けた。そういう又お話でしたね。
私はお話を聞かせてもらって一番始めに頂いたのは。あの今はどうか知りませんけれども、御本部に参りますと、あの金光様の、教祖様の御一代を漫画にした本がありましたよね。だから漫画を見るようであるよう、しかもそれでいて本当なことをこう、云うなら教祖様の御一代が大分あり漫画を見れば分かるようにですね、そんな感じ。
だからこう信心の高尚な人が相対でお話でもすりゃもっと素晴らしい。なら素晴らしいというか難しいお話も出来なさる方に違いありませんけれども、大衆を相手にしてあの漫画的なお話の中に、もう信心がね、小学校から中学、大学というように過程を経ながら、それもまあ失敗しながら進んでいくといったような感じで話されましたけれども、なかなか失敗どころではない的確に、こう信心を進めて行かれておられる。
特におかげを頂くこつというかね。あの御初穂、お供えの事を、の事に至ったら、もういよいよやっぱりなんですかね。普通で話せないようなところを、そのぎりぎりの自分の体験を通して話しておられましたですね。
自分の仕事の収益の一割をお供えすると、始めの間は有難く出来とった。例えば売り上げの少ない時の一割ちゅなら少しぢゃったけど、ところがやっぱ何千万というような大きな売り上げになって来ると、それから例えば三千万なら三百万のお供えせんならんけん、ちった惜しかといったような感じのことを話しながらね。
それでいて私の願いというのはダンボールに一万円札をいっぱい詰めて金光様の前に、金光様がびっくりしなさるようなお供えがしたいというのが願いであるし。あそこの辺に先生生き甲斐を感じておられるのぢゃないかと思われるような、素晴らしいことに進んでいかれておるでしょうが、ね。惜しい欲しいとか、我情我欲を絡ませながらのお話であったことが私は素晴らしいと思いました。
私は最後に教会長の挨拶ということでございましたから、神様にお願いさして頂きましたらね。『もう終戦後に流行りました、お富さんという歌が流行ったでしょう、ね。あだな姿のお富さんですかね。黒塀にこう見越しの松の、丁度お芝居で演出するような感じの、前に謂わばお富さんでしょう洗髪をね。洗髪で風呂から上がってきたというような感じの所を頂いたんです。そして風呂の湯桶を持っておる湯桶の中が覗かれるような感じで御神眼頂いた。
中にはまあ云うなら、あのまあ洗い粉とか、いろんな体を洗い清めるとか、何ちゅうですか、磨くそのが入っているんです桶の中に。そういう御神眼頂いて、私は昨日ご挨拶さしてもらいました。もうそれこそ男なら誰でも感ぜずにはおられないような姿なんです。あだな姿のお富さんです。死んだはずだよ何々と云うのがありましょう、ね。
例えば先生自身が何回も死に直面する程しの病気をしながら助けて頂いたということでもありましょう。黒塀ということは合楽の信心のことでしょうね。合楽の黒と云うことは修行、心行信行と云うならば合楽の御比礼をバックにしてということでしょう。見越しの松というのは九州三松(みまつ)と言われる、三松(さんまつ)と言われる九州の信心を教えて下さったんでしょう。
その見越しの松に黒塀、その前に云うならば風呂上がりの洗い髪のそれこそあだな姿のお富さんが湯桶を抱えて立っておるという、まあ男なら誰でも感ぜずには、だろうと思われるような魅力的な姿である。それで私はあの、そのお話の芯をねとにかく魅力ある信者になろうということを挨拶に申しましたのはそれからでした、ね。
本当に魅力ある先生でしたですね。本当にこれは教師たらんでもです、信者でもやはりその感じたでしょうが。特に云うならば、教会長先生なんかもいくらも見えておりましたが。本当に、あげな信者がうちに一人おったら、と思われたぢゃろうと思うような感じでしたよね。
お話が魅力がある。態度が魅力がある。言われること、されることがもう本当に魅力がある。それでいて本当なところへ本当なところへと信心を進めていかれる。
私は昨日、前の晩の壮年会の時に聞いたお話の中から感じたんですけれども、合楽で言われる心行、信行、家業の行という中に、先生の生き方というのは心行にも通じれば、所謂信心の行にも通ずるなあという事。ということは、修行ということをいつも心に掛けておるという事。
下駄はくでも修行、便所に行くでも修行なんだ。修行というのはそういう難しい修行するのぢゃない、そん時にその事前に神様頂きますといったような神様にお礼を申し上げるような、これを修行と思うて忘れんようにするというのです。
だから私ゃあこりゃ合楽の心行の中にこれもお互い一つ頂かしてもらわんならんとこだなあ、ね。下駄一つ揃えさせてもらうでも、お風呂へ入って、云うならばタオル一本こう使わせて頂くでも、石鹸一つ頂かして頂くでも、後から入る人が気分が良いように。後から上がってくる人が、はあー奇麗にいつもここは下駄が揃えてあるというような。
自分が好き、好みでそういうことをするのぢゃない。後からそれを見た人がはあ感じがええお風呂は入ったらタオルはあちらへ、石鹸はこう泡だらけでこうしとる、というのぢゃなくて。石鹸一つの使い方にも心行があるというふうに、合楽では説きますけれども、ね。
それをもう一つ念を入れてですね。それを本当に一日の修行の中にですね。例えば自動車に乗るなら乗る前に乗せて頂く事の有難いこと、お願いをさしてもらうということ。便所に行っても有難うこざいましたとこう、まあ始めにお願いをしたりお願いを申し上げて用を足さしてもらうといったような生き方。
なかなか迂闊にしておると忘れますけれどもそれを修行。合楽では火の行もなけりゃ、水の行もないのですから。それを修行と思うてするならば心行であり又信行であるということになりますでしょう。
私はやっぱりそれに徹することだと思う。先生の話を聞きよると何か疎かなような、その成程我情我欲の人間の一つの機微のようなものを絡ませながらの話ですけれども。もうそれこそなんというですか、もう実際はすっきりとしたおかげをこう頂いていっておられます。何をするにもどんな場合でも真似しなけりゃでけないことだ。そして御祈念の中に頂く、云うなら神様と交流する心の状態、そしてその状態で神様右にしましょうか左にしましょうかというようなお尋ねをしながらの生活。
信心生活ということと同時に、身凌ぎのでける信心とはそういう信心をいうのではなかろうかと思います。まあ私は昨日のお話を頂いてです。お互いがね、本当にもうそうにゃ熱心に願うばってん、ほんな我がこつばっかり一生懸命。これなんかにゃ、魅力どころかいや気がさしなさるぢゃないかと思いますね神様が。
こん奴は我がこつばっかりとこう思いなさりゃせんぢゃろうか、ね。それを云うならばあのように信心が成長していきながらね、もうとにかくまあこれは私の言葉で言うと役に立ちたい立ちたいの一念を燃やしておられる。
なかなかもって初めの売り上げの少ない時の一割は有難くお供え出来たけれども、何千万という売り上げが出来るようになったら、ちったその惜しいような気がすると云ったような話をしながら、ずばあっとこうおかげを受けていっておられる。
そん暗いなこつだんじゃなか。それこそ段ボール一杯の一万円札をお供えしたいというような願いを持っておられる。もう神様が魅せられなさるだろうと思うですね。そういう健気な心に出来る出けんは別としてこりゃ私共がこうして神様といよいよ仲よう交流できるようになったのもです。云うならばあの若い時からそういう心が非常に誰よりも強かったという感じがします、ね。
いつもお話しますようにあちらの総代さんのおばあちゃんがお参りされるとお賽銭箱にもう手に一杯、まあその時分まあ一銭銅貨とか二銭とかあるとば全部お賽銭箱にぢゃりぢゃりちいうちからお供えしよんなさった。こりゃ子供ん時私が、はあー私どんもあげなお供えが出けるようになりたいなあち、やっぱ思いよった。
そういう思いを神様はこうやっぱこの氏子はというふうに目を付けてくださるようになったのぢゃなかろうかと思うです、ね。だんだん長ずるに従ってああご大祭なんかを拝む時あん二十、善導寺は二十五台のお供えを一人で出けるようになりたいなあ。そういうふうな願いとか思いをね、私は神様がこう魅力を感じて下さったんぢゃなかろうかと、ね。
お互いただ願った、自分の願っておることがね、もうほんな自分の苦しいこつばっかりもうお前が苦るしんどるこっは分かっとると度々のこつなら言いなさろうというような感じをね、お取次頂いたそれによって有難い信心をお育て頂けれる。こりゃこのことで力を頂いて神様がどういう御用につこうて下さるとするだろうかと想像しただけでも、こう喜びで一杯になってくるような信心。そういう時に神様が魅せられて下さるのぢゃないだろうか。
いつもそれこそ洗い髪である。自分の信心を洗い上げる清め上げるね。そういうあだな姿にね、私共の信心もバックには云うならね黒塀の見越しの松は合楽という教会をバックにしておるのですから。どんなに魅力のある姿、演出でも皆さんの心次第で出来るんです、ね。
昨日の私は結城先生のお話の中からね、まあそういうようなものを私は頂きましたが。皆さんはどうだったでしょうか。そして今日の身凌ぎの出ける信心ということは、ね。あの結城先生のような生き方から身凌ぎの出ける信心。別に身凌ぎというのは自分のことは自分でお伺いくらい出けるくらいなというようなふうにも頂きますけれども。
先生の場合は別に神様からお知らせを頂くわけでもないけれどもね。日頃の信心の云うならば何というですか御祈念の稽古、御用の稽古そこから自分の心にいちいちこう感じるもの、所謂神様との間に交流する何物かを感じるもの。所謂、神様との間に交流する何物かを感じ止めることが出来る、ね。
もうまさしく身凌ぎの出ける信心とは、ああいう信心をいうのだとこう思う。我情我欲でね我情我欲ちいうが、ただ苦るしい時の神頼み的な、苦しい時だけを願わんならん頼みもせんならんけれども、その事を通して頂く。云うなら神様が感じなさるような頂き方というものを身に付けていかなんと思うですね。どうぞ。